1月に創立150年を迎えた警視庁は事件や事故だけでなく、自然災害の発生時も最前線に立って都民の安全を守っている。警察業務の拠点となる庁舎には安心感や信頼感を表し発信する役割も求められる。震災や戦災、老朽化などさまざまな局面をくぐり抜け、改修や建て替えを繰り返してきた。150年の歴史をひもときながら、皇居の桜田門前に立つ現庁舎への変遷をたどる。
警視庁庁舎は1874年の東京警視庁の創立とともに設置された。場所は現在の千代田区丸の内1。当時は旧津山藩邸が立っており、一部を改修し利用した。その後、老朽化に伴い新庁舎を建設。82年に同じ場所で木造2階建て延べ約9700平方メートルの「鍛冶橋第二庁舎」が誕生した。
90年代に東京駅の建設計画が立ち上がり、庁舎の敷地が駅の用地として編入されることになった。このため、現在の第一生命日比谷ファーストなどが立つ場所(千代田区有楽町1)に移転。1906年に着工し、煉瓦(れんが)造り3階建て延べ約9900平方メートルのモダンな「日比谷赤煉瓦庁舎」が11年に竣工する。設計は建築家辰野金吾の指導の下、技師の福岡常次郎が手掛けた。
庁舎完成から12年後の1923年、関東大震災が発生した。元警視庁施設課の大蔵広明氏は「地震で壊れなかったが、延焼によって3日目に燃え落ちた」と説明する。震災1カ月後に大蔵省が臨時営繕局を設置。現在の馬場先門から和田倉門にかけた皇居前広場に、長さ150メートルの仮設庁舎を半年かけて建設した。建設資材は国が購入し、工事業者に支給。当時は建設資材を集めるのにかなり苦労したという。
震災復興に向け大蔵省に設置した中央諸官庁建築準備委員会が、優先的に整備する庁舎として総理官邸や警視庁庁舎を選定した。大蔵氏は「当時は治安が悪かったので最優先で造ったのだろう」とみる。
建設地は千代田区霞が関2。現在の警視庁が立っている場所だ。江戸時代に諸大名の宅地として使われた土地を国が管理していた。震災後、一時的に資材置き場や乗合自動車の車庫になっていた。
26年に着工し、31年にRC造地下1階地上5階建ての新庁舎(旧桜田門庁舎)が完成する。1階の外壁は豆州産横根沢石で、2階以上は茶褐色のスクラッチタイルを採用した。庁舎正面に配置した塔は、上部をドーム型にする予定だった。その役割について大蔵氏は「図面も残っていないので分からないが、明かり取りだったんじゃないか」と想像する。ところが、当時の国会議員が隣接する皇居を見下ろすことになると問題視。結局、鉄骨まで組み上がっていたが、ドーム部分をなくすことになった。
戦中の44年末ごろ空襲に備え、屋根を改修。既存のクリンカータイルの上に、厚さ約50センチのコンクリートによる「耐弾層」を打設した。
戦後、本部職員の数は徐々に増加する。旧桜田門庁舎が完成した31年は1800人だったが、72年には5800人に拡大。通信指令室、交通管制センターも増設したため、庁舎内が手狭になっていた。建物の老朽化も進行していることから、建て替えに向けた動きが本格化する。