東日本大震災の発生から間もなく14年を迎える。震災当時、社会人になった若者たちはそれぞれの職場でリーダー的な存在になり、活躍の場をさらに広げようとしている。未曽有の大災害に直面し、被災地の復旧・復興、東北の発展に関わった経験は、キャリア形成や仕事との向き合い方でどのようなインフルエンスになったのか--。行政機関、建設コンサルタント、建設会社で奮闘する4人の今を紹介する。
◇東北整備局宮城南部復興事務所・須貝由花さん/地域に貢献できる誇り胸に
建設業で働く父の背中を見て育ち、小さな頃からものづくりに興味があった。土木と建築を学ぶため地元の工業高校に進学し、2年生の時に東日本大震災を経験した。震源から離れた山形県米沢市でも震度5強の大きな揺れがあり、たまたま訪れていたショッピングモールで「これはただ事ではない」と恐怖を感じた。被災地の状況を知って「誰かのために自分にも何かできないか」という思いで胸がいっぱいになった。
その後、東北中央自動車道の建設現場を見学する機会があり、国土交通省が手掛ける大規模な工事を見て「大きな工事で地域に貢献したい」と思うようになった。工高卒業後、念願がかなって東北整備局に入り、三陸国道事務所に配属された2016年から、三陸沿岸道路の山田宮古道路整備で工事の発注業務を担当させてもらった。
前例のないスピードで進む事業を限られた職員数で担当するのはプレッシャーも大きかった。けれども被災された地域や住民の方々のためと思うと力が湧き、同僚と一緒に頑張ることができた。17年11月に迎えた道路の開通日は決して忘れることができない。開通式の司会を務め、地元の方から感謝の言葉を直接いただけたことは、私にとって今も大切な宝物だ。多くの人が道路を利用し喜んでくれることこそ、仕事の意義だと実感した。
復興の最前線で得た経験は、これからの私を支える。今は工務課の係長として後輩の指導にも力を入れている。三陸国道勤務で心残りだった“もっと地元と関わりを持てば良かった”という気持ちをバネに、地域との関係構築にも尽力している。国交省の仕事は目に見える形で地域に貢献できる。誇りを持って仕事と向き合い、より多くの人の役に立ちたいと思っている。
(すがい・ゆか)12年米沢工業高校卒、東北整備局入り。三陸国道事務所で三陸沿岸道・山田宮古道路の発注業務などに携わる。現在は宮城南部復興事務所で係長として予算・工程管理などを担当する。山形県出身、31歳。
◇鹿島建設東北支店・大石史哉さん/チーム力で奮闘、経験が財産に
東日本大震災の当日、修士論文を終え仙台市内のアパートで転居の準備をしていた。揺れの大きさに恐怖は感じたものの、そこまで大事になるとは思いもしなかった。徐々に入ってくる情報を見聞きして戦慄(せんりつ)が走ったことを覚えている。
震災が起きた約半月後、鹿島の社員として新生活が始まった。自分の中では震災前後で仕事への考え方が大きく変わったと思う。スケールが大きな仕事がしたいという理由でゼネコンを志望したが、学生時代の6年間お世話になった東北の復興に役立ちたいという思いが加わった。入社前から決まっていた東北支店への配属。不安はあったけれども「復興に貢献する」気持ちが強かったと記憶している。
大災害の混乱もあり半年間程度、東京で勤務するよう指示があった。東北に赴任できず悔しさを感じたが、一日も早く復興に携わるため技術者として実力を養おうと気持ちを切り替えた。実際に関わった復興事業は三陸沿岸道路の「唐丹第3トンネル工事」と福島県大熊町の「復興再生拠点基盤整備工事」。印象に残っているのは地域の方々が持っていた早期復興に対する“強い思い”で、くじけそうになる私自身が何度も励まされた。
「復興のためにありがとう」。大熊町に帰還した方が涙ながらに掛けてくれた言葉は今でも忘れられない。二つの復興工事で学んだのは「発注者や地域の皆さんがゼネコンに何を求めているのかを考えて仕事をする」こと。
チーム力で課題や困難に取り組んだ経験は大きな財産になっている。ゼネコン、そして鹿島の強みは総合力を発揮し、大規模プロジェクトを進める能力。ものづくりに関わる楽しさを忘れず、プロジェクトの中核を担える技術者になれるよう日々精進したい。
(おおいし・ふみや)11年東北大学大学院修了、鹿島入社。震災復興では三陸沿岸道路のトンネル構築、福島・大熊町の拠点基盤整備に携わる。現在は成瀬ダム本体建設工事で課長代理として施工管理を担当する。静岡県出身、38歳。